松坂屋 史料室 企画展 Vol.46 銘仙とは先染めの平織物のことで、明治時代に縞柄の流行に乗って関東一円で着られるようになりました。やがて全国に普及し、染織技術の発展とともに様々な色柄の表現が可能になったことを受け、大正から昭和初期にかけて、中産階級の普段着、庶民の実用的なおしゃれ着として、秩父(埼玉県)、伊勢崎(群馬県)、桐生(群馬県)、足利(栃木県)、八王子(東京都)などを主要産地として盛んに生産されるようになりました。 全盛期は1920年代から30年代で、その取扱高の最も大きかったのが上野店(松坂屋いとう呉服店→松坂屋)でした。当時、「銘仙は松坂屋」といわれたゆえんです。 その中で、秩父の銘仙との関わりが深くなり、明治後期の陳列販売の開始、そして百貨店への業態転換後、催事などによって需要をさらに掘り起こしたのです。また、大正12年に襲った関東大震災後には、主要産地と協業で銘仙を廉価に供給、復興の一翼を担いました。今回の企画展では当時の社内報・広告・ポスター・通信販売用チラシなどを交えて展示・紹介いたします。松 坂 屋 と 銘 仙会期 : 会場 : 令和3年5月28日(金)→8月23日(月)松坂屋名古屋店 南館7階・松坂屋史料室入場無料日本では元々「養蚕」「製糸」「機織」までを一貫して行う家内工業が主流でした。当時は「太織」「目千」などと呼ばれ、柄は単純な縞模様がほとんどで、色使いも地味なものが大半をしめていました。「太織」は製造工程で発生する屑糸を使い農家の人々が自家用に織っていたものですが、厚地で丈夫であるため、江戸時代から市場でも流通はしていました。その後、明治時代に入り、太織に絹紡糸(あまり良質でない繭の糸)をうまく使用するようになると、技術と品質の安定とともに量産化が可能となり「銘仙」の生産に繋がっていったのです。「銘仙」は、一般にいう先染めの平織物のことです。当初は色柄ともに地味なものでしたが、時代とともに前もって染め分けた糸を経糸か緯糸の一方、あるいは両方に使い模様を織り出す「絣織」の技術を用いて多彩な表現が探求されるようになりました。 中でも自由で様々な模様の表現が取り入れられるようになったのは、明治時代後期頃から普及した「ほぐし織」といわれる技法です。仮織りした経糸に型染めし、先染めした緯糸で織るもので「模様銘仙」とよばれ、多くの技法が生み出されました。 また、模様銘仙が銘仙の主流となった背景には、明治中期以降の科学染料の普及と織機をはじめとする機械の品質向上や動力化、工業化も大きな要因でした。科学染料は、それまでの天然染料に比べ、安価で安定的に染めやすく、色の種類が豊富であるメリットがありました。生産も各家で織って納品する形態から工場形式が増加し、さらに動力化が進むことにより生産数は飛躍的に向上しました。こうして銘仙は大正から昭和にかけて、全国に流通していくことになりました。白地抽象模様銘仙 薄桃地紅白花柄銘仙浅葱茜地萌黄縞銘仙ふとりけんぼうしかすりおりよこいとたていとしまくずいとめせん歴史進化・発展もともと「めいせん」という語は、経糸の本数がとても多い、織機の筬目(おさ:織機に仕掛けた経糸の密度と織り巾を決めるもの)が千もありそうな綿密な織物だというところから「目千」や「目専」と言っていたようです。ひらがなの「めいせん」が漢字になったのは、明治30年代に呉服店や百貨店が、商品名として「産地の者が、それぞれ責任を持って選んだ。」、すなわち「銘々撰定した。」というところから、「銘撰」としたのがはじまりです。その後「撰」の文字が「仙」に変えられたのは、銘仙は本来大衆的なものなのだけれども、他に同等なものなどない「銘々凡俗を超越したものである。」というたとえから「仙」の字があてられ「銘仙」と名付けられたようです。 (「伊勢崎織物同業組合史」から引用)めせんめせんたていとおさめ語源栃木県群馬県埼玉県東京湾東京都館林飯能青梅村山佐野上野店八王子伊勢崎桐 生足 利秩 父主要産地
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