松坂屋 史料室 企画展 Vol.45 大正9(1920)年の戦後恐慌は翌年の春ごろまでに一段落し始めましたが、主要産業の造船や鉄鋼業などが大きな痛手を受けており、不況は長期化していたのです。さらに、そこへ大正12年9月首都圏を関東大震災が襲いました。この頃までの百貨店は高額所得者や中産階級上層部を顧客層としていましたが、松坂屋は大正13年12月に大震災後復興のトップを切って銀座店を新築開店させ、同時に百貨店経営にとっての大転換である下足預かりの廃止(土足入場)を実施しました。これ以後は誰もが立ち寄れる百貨店として、急速に大衆化が進展しました。名古屋店においても、大正14年5月に南大津町(現在地)に2万㎡の店舗を新たに構え、新中間層(サラリーマン家庭)の顧客の増加に対応しました。今回の企画展では、名古屋店の新築移転から増築など大正から昭和初期にかけての変遷を当時の史料・画像を交えて紹介・展示いたします。松坂屋名古屋店の変遷(大正・昭和初期)会期 : 会場 : 令和3年2月26日(金)→5月24日(月)松坂屋名古屋店 南館7階・松坂屋史料室入場無料大正9(1920)年の第1回国勢調査で約43万人であった名古屋市の人口が、5年後の大正14年の第2回調査では76万8,000人にまで急増していました。都市への人口集中は大衆消費社会の形成を促し、百貨店の客層もそれまでの特定顧客から不特定多数の新中間層へと急速に拡がっていたのです。栄町の旧店舗は、その増加する顧客と商品によって手狭になったため、栄町から約300m南の南大津町(現在地)への移転を決定しました。設計は「名古屋を創った建築家」と呼ばれた建築家・鈴木禎次で、施工は竹中工務店でした。新店舗は多様化する品揃えに対応できるよう陳列スペースを拡大し、新たに5階に楽器、写真、図書、4階に和洋家具、室内装飾品、園芸、1階に薬品などの売場を増設。施設・サービス面でも多くの新機軸を打ち出し、客用エレベーター6台、業務用4台のほか、暖房冷房装置、空気清浄装置などの近代設備も備えました。玄関、1階売場、階段、エレベーター前などの内装の主要部の壁は大理石張りで、大津通側の1階部分にはショーウィンドーを設け、床部に花崗岩(御影石)、壁部にテラコッタ(素焼きタイル)が張られていました。いとう呉服店は大正9(1920)年2月1日に会社創立10周年を迎え、各地で記念式典を挙行し、3月5日には名古屋営業部において「信条」を通達しました。この「信条」は創業以来一貫した店是(店の基本方針)をもとに、伊藤祐民社長の意を受けて鬼頭幸七専務が起草(文章作成)したもので、いとう呉服店の経営方針の根本を成すものでした。常時、店内、舎宅内に掲げ、毎期の店員総会には専務取締役が朗読することも定められました。名古屋店 新築 (大正14年4月竣工)「信条」通達 会社創立10周年いとう呉服店は、内務面の整備の一つとして大正2(1913)年3月に「店則」の制定を行いました。これは現在の「就業規則」にあたり、明治34(1901)年制定の「明治の掟書」に代わるものでした。その後、7月には次のような「服制規程」を設けました。そして大正7年5月には、従来の和服では顧客との区別がつきにくいという理由から制服を定めました。指定の縞模様(現在のストライプ各種)の生地を従業員に供給して制服とし、「規程縞」と呼びました。店員は店員らしく質素な服装でなければならない。常に清楚で見苦しくない風采を整えなければならない。業界初の制服「規程縞」を制定新館御案内図きていじまきていじま名古屋店 昭和初期(6階建て)規程縞の女性社員(大正14年 中央は伊藤祐民社長)「いとう呉服店」は、名古屋の新店舗の竣工を目前に控えた大正14(1925)年2月に会社創立15周年を迎え、その開店当日の5月1日に全店の商号を「松坂屋」に統一しました。明治43(1910)年の百貨店開業以来、売上高において洋雑貨、ショール・洋傘・履物、児童用品、食料品の構成比が年々高くなっていき、この年の名古屋店呉服部門の売上高シェアが遂に50%を切り、もはや呉服店の名称がそぐわないものになっていました。そこで松坂屋は、他社に先駆け名実ともに百貨店へと脱皮を遂げたのです。「松坂屋」に商号統一 大正14(1925)年「松坂屋」商号統一ポスター 大正14(1925)年かこうがんみかげいししまもようてんぜきそう
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