Vol.44 松坂屋の年賀状|松坂屋史料室
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松坂屋 史料室 企画展 Vol.44 「一年の計は元旦にあり」などというように、一年の節目として日本人はお正月をことのほか大切にしてきました。松坂屋では新しい年の始まりのご挨拶として、江戸時代すでに顧客へ年賀の書状を出していました。本格的になったのは明治時代になり郵便制度が整う中で、私製はがきが郵便物として利用できるようになった明治33(1900)年以降のことです。その後、時代の変化とともに自由な趣向が凝らされるようになり、松坂屋の年賀状も華やかなものとなっていきます。特に昭和30年代以降は、原画を著名な画家に依頼するようになり、より見応えのあるものになっていきました。  今回の企画展では、昭和後半の年賀状を中心に、中でも愛知県にゆかりのある画家の原画を交えご紹介いたします。また、江戸時代のお正月風景を描いた錦絵、工芸品、干支てぬぐいなどを展示いたします。松坂屋の年賀状会期 : 会場 : 令和2年11月27日(金)→令和3年2月22日(月)松坂屋名古屋店 南館7階・松坂屋史料室入場無料1905年北海道に生まれ、女子美術専門学校(現・女子美術大学)卒業後、小学校教師を務めながら院展に出品、その後母校の教授を経て、1966年愛知県立芸術大学開校と同時に日本画科主任教授となりました。「面構」「富士山」シリーズ、裸婦の連作など、年齢を重ねるごとに高い評価を得ました。眉目秀麗で名を馳せた蘭陵王が、士気を上げる為に必ず獰猛な仮面を被って出陣した、という逸話に因んだ雅楽の曲目を舞う姿を描き、画面の天地の中にあえて納めない大胆さがいかにも片岡らしい表現となっています。どうもうおうらんりょうびもくしゅうれい雅楽蘭陵王 昭和51(1976)年 片岡 球子1919年静岡県に生まれ、名古屋市立工芸学校卒業後、1936年松坂屋名古屋本店に入社、戦後松坂屋銀座店宣伝部に勤務。二紀会の中心作家として、華やかな女性像で人気を博しました。年賀状に相応しくめでたい内容の能の演目である五番目物の曲名「猩々」に材を取った本作は、油彩での制作だけでなくポスターや表紙絵、挿絵など多彩な仕事を手がけて活躍した宮永の達者ぶりが伺えます。しょうじょう猩々 昭和52(1977)年 宮永 岳彦1934年熊本県に生まれ、東京藝術大学卒業の1961年、院展に初入選。以後院展に発表を続け、1979年院展同人に推挙、この年に愛知県立芸術大学日本画科助教授に就任。本作は、同大学教授に就任した1981年に描かれました。天草のキリシタン信仰を題材とした連作が氏の代表作ですが、富士もまた多く取り上げられているモチーフであり、暖色系の色彩を排して落ち着いた風情を漂わせる作品です。駿河富士 昭和57(1982)年 小山 硬1925年愛知県額田郡豊富村(現・岡崎市)に生まれ、東京藝術大学が1946年に創設されると第1回生として油画科に入学。卒業後は主にヨーロッパ風景を発表し名を馳せました。1978年からは母校の教授に就任、後に学部長も務めました。中根といえばイメージされるのがヨーロッパの古城や街並みですが、本作は中根調の趣を存分に湛えながら、朝陽のなかに佇む名古屋城のいかにも新春の日の出らしい静けさを纏った姿が印象的な、1982年画家57歳、充実期の作品です。金鯱城朝陽 昭和58(1983)年 中根 寛1983年に描かれた本作は、落款を確かめずとも誰の作品であるかが一目瞭然、いかにも正月らしい赤富士です。富士を描く画家は数多あれど、これほど個性的な強さを持った表現を試みたのは片岡ただ一人と評してよいでしょう。山肌の赤、冠雪の白、空の群青のコントラストが美しく、前年に日本藝術院会員に就任、喜寿を過ぎてもエネルギッシュな制作を続けていた片岡の真骨頂が横溢する一点です。めでたき富士 昭和59(1984)年 片岡 球子1898年名古屋市に生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)在学中に二科展に入選、その後独立美術協会の創立会員として活躍後、国画会に発表の場を移しました。美術教育分野でも、母校・東京藝術大学で教鞭を執った後、1966年の愛知県立芸術大学創立にも尽力、美術学部長として後進の育成に務めました。1977年に描かれた本作は、いかにも伊藤らしい調子の背景に干支に因んで白馬を配し、静謐な中に油彩ならではの重厚な雰囲気も漂わせた晩年の優品の一つと言えるでしょう。白馬 昭和53(1978)年 伊藤 廉きょうべんとせいひつたたたたずまとらっかんあまたおういつ【年末年始の営業について】12月31日(木)=10時→18時まで営業、 休業日=1月1日(金・祝)。新春1月2日(土)は9時30分より営業いたします。

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