Vol.42 大戦下の松坂屋|松坂屋史料室
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松坂屋 史料室 企画展 Vol.42昭和12年(1937)7月、日中戦争が勃発し、松坂屋も「国威発揚」「戦意高揚」の名の下に総動員体制に組み込まれていった。百貨店に対する制約も強まり、成長戦略の機軸を中国大陸、東南アジアに移して海外事業を活発化した。昭和16年(1941)太平洋戦争開戦後は、戦火の拡大とともに空襲が本格化し、松坂屋は名古屋店、銀座店、静岡店の3店全焼という大きな被害を出す中で終戦を迎えた。戦後75年の節目にあたり、大戦下における百貨店経営から復興期の事業展開まで、松坂屋の苦難の道のりを振り返る。大戦下の松坂屋会期 : 令和2年6月19日(金)→8月24日(月)会場 : 松坂屋名古屋店 南館7階・松坂屋史料室入場無料天津営業所宮島市場(昭和15年10月開店)北京営業所(昭和15年9月開店)衣料品点数表(昭和17年 名古屋店)中古品売場の開設案内(昭和17年4月 名古屋店)不用品買受広告(昭和18年10月 上野店)銃後の国民服・銘仙の展示(昭和12年10月 上野店)上野店、銀座店社員による戦勝祈願(昭和13年11月 鎌倉・鶴岡八幡宮)ぜいたく全廃を唱える松坂屋看板(昭和15年10月 東京駅前)戦闘機「松坂屋号」を献納(昭和13年6月 羽田 東京飛行場)「支那事変展」につめかける人たち(昭和12年10月 大阪店)「衣料切符制実施と戦時生活指導展」チラシ(昭和17年3月 名古屋店)名古屋店7階のダンスホール(昭和21年)「エキスポートバザー」のポスター(昭和24年8月)「生活と文化を結ぶ松坂屋」広告(昭和24年1月)直営の上海合同百貨公司(昭和14年3月開店)空襲で被災した名古屋店(昭和21~22年頃 国立国会図書館蔵)1.統制の強化2.軍事行動のプロパガンダ3.戦時下での売場運営4.大陸進出5.復興期の事業展開日中戦争開戦後は国内の統制が順次強化されていった。特に昭和15年(1940)の「奢侈品等製造販売制限規則(7.7禁令)」の公布による贅沢品禁止の動きは、松坂屋の高級呉服や貴金属販売に致命的な打撃を与えた。この年、「ぜいたくは敵だ」が流行語となった。日中戦争が長期化するにつれ売場も戦時色が強まり、大陸に出征した肉親や知人に送る慰問袋を扱う慰問品売場が設けられた。昭和17年(1942)2月に「衣料切符制」が実施された後、生活必需品はすべて配給制となり販売商品は漸減していった。松坂屋は、中古品、不用品買受、貸し衣裳、貴金属買上代行業務などの売場を新設し、物資不足のなか新たな収入源を模索した。百貨店に対する制約が強まる中、中国大陸、東南アジアでの軍需や在留邦人需要が拡大したこともあって、松坂屋は活路を海外へ求めた。松坂屋の海外事業は直営会社3、営業所8、出張所12、他に工場、ホテル、農場経営など、日本の百貨店として最も広範囲にわたる事業規模を誇っていた。終戦後、松坂屋は被災した店舗を抱え、売るべき商品もない状況下で、新しい営業分野を開拓し復興の道を歩んだ。名古屋店は、終戦直後に進駐軍向けの「土産品売場」や「ダンスホール」の営業を開始し、昭和24年(1949)には進駐軍とその家族に輸出商品をドルで販売する「エキスポートバザー」を開設した。松坂屋のイメージを象徴する宣伝標語「生活と文化を結ぶ松坂屋」を掲げたのは、敗戦からわずか3年後の昭和23年7月のことであった。昭和13年(1938)、松坂屋は陸軍と海軍に戦闘機計2機を献納し、翌14年5月「配給報国」「国策順応」の営業方針を掲げた。日本政府も国民に軍事行動を知らしめる宣伝の場として百貨店を動員し、松坂屋では「支那事変展」や「戦時生活指導展」など数多くの展覧会が開かれた。しゃ し ひん

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