Vol.38 京都仕入店とその遺産|松坂屋史料室
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松坂屋コレクションの収集活動(1931年~1939年)1740年(元文5)から尾張藩の呉服御用を務めていた松坂屋(当時の商号は伊藤屋)は、1745年(延享2)高級呉服の唯一の生産地であった京都に仕入店を開設した。以来2010年(平成22)に閉鎖を迎えるまでの265年間、京都仕入店は単なる呉服の仕入拠点にとどまらず、松坂屋コレクションの収集活動や最高級呉服の制作を担当する中枢として松坂屋の業績を担うと同時に、後に重要文化財指定となる衣裳を含む数々の貴重な染織史料の宝庫でもあった。当企画展は、わが国の文化遺産である松坂屋コレクションの形成過程に焦点を当てながら、その誕生の舞台となった、今はなき京都仕入店の歴史を辿るものである。-松坂屋コレクション生誕の地-松坂屋 京都仕入店とその遺産-松坂屋コレクション生誕の地-松坂屋 京都仕入店とその遺産松坂屋京都仕入店(明治初期)稲垣稔次郎の京都仕入店時代の作品標準図案「城」(1929年)稲垣稔次郎の京都仕入店時代の作品衣裳図案「四季の薫」(戦前)洋画家・岡田三郎助から購入した「八橋に杜若模様小袖」(江戸中期)裂「扇散らし模様打敷」(江戸後期)能面「朝倉尉」(江戸時代)雛形本「花鳥雛形」(江戸初期)加賀前田家から購入した「松鷺模様縫箔」(江戸中期~後期)昭和5年頃の京都仕入店社員集合写真後列左から4人目が稲垣稔次郎松坂屋は1745年(延享2)京都室町錦小路に高級呉服の仕入店舗を構えた。京都に仕入店を開設して仕入-販売のルートを確立することは、揺るぎない繁栄の基礎を築くための重要な布石の一つであった。1749年(寛延2)には新町通六角下ルへ移転。その後、1788年(天明8)の団栗火事による類焼や1864年(元治元)の蛤御門の戦火による焼失という惨事があったが、店舗はその都度再建された。会 期:令和元年5月24日(金)→8月26日(月)会 場:松坂屋名古屋店 南館7階・松坂屋史料室 入場無料京都仕入店の開設(1745年)1931年(昭和6)京都仕入店内に「染織参考室」を設置した松坂屋は、同年から江戸時代以前の染織品の収集を開始した。収集の目的は、同業他社に真似のできない最高のオリジナル高級呉服を制作するため、収集した染織品の色や柄、手法などを新作デザインの参考にするためであった。収集の任務は京都仕入店図案部の社員が担当し、1939年(昭和14)までの9年間、小袖、能装束、振袖、帷子などの衣裳をはじめ裂、雛形本、能面、屏風などの貴重な染織品や工芸品が集中的に収集され、その数約1万点に及ぶ名品揃いのコレクションとなった。購入先には、加賀前田家、洋画家・岡田三郎助、染織工芸家・岸本景春など、錚錚たる顔ぶれが名を連ねていた。これらの収集品は戦中・戦後を通じて京都仕入店で保管され、後に「松坂屋コレクション」と呼ばれることとなる。松坂屋は明治時代以降、積極的に呉服の意匠の開発とデザイナーの育成に努めており、京都仕入店は松坂屋のオリジナル高級呉服制作の拠点となっていった。松坂屋が育成したデザイナーたちの中には1962年(昭和37)に染織の「型絵染」で人間国宝に認定された稲垣稔次郎もいた。稲垣稔次郎は1922年(大正11)に入社後、型友禅の図案制作を担当していたが、当時の稲垣の貴重な作品がいくつか京都仕入店に残された。高級呉服の制作とデザイナーの育成(明治時代~)どんぐりかたびらそうそういながきとしじろう稲垣稔次郎(1902-1963)【略歴】大正 5(1916)年大正11(1922)年昭和 6(1931)年昭和33(1958)年昭和37(1962)年京都市立美術工芸学校入学松坂屋京都店図案部へ勤務松坂屋を退社、染色に専念日本工芸会理事に就任重要無形文化財保持者(型絵染)に認定松坂屋 史料室 企画展 Vol.38

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